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徳川将軍と江戸の野菜


江戸東京野菜の発生の多くは、当然のことながら江戸時代に遡ります。

 

そしてそれら江戸東京野菜と当時の将軍とのエピソードが多く存在します。

 

また、家康が取り組んだ、江戸のインフラともいえる舟運の整備とも相まって、江戸中に広がります。

 

 

 

家康が持ち込んだ三河島菜

徳川家康が天正18年(1590)に江戸へ入府した際に、家臣だけでなく尾張、遠州、駿河などにいた配下の商人から農民までも江戸に連れてきたといいます。その中で三河の百姓を入植させた地を三河島(現・荒川区尾久周辺)と名付けたとの説があります。
江戸時代の三河島は江戸近郊の農村地帯でした。そこで栽培されたのが三河島菜であり、代表的な漬け菜として江戸の食文化を支えました。
しかし関東大震災の際に食料調達として使用された白菜の普及により、その座をとって代わられました。

昭和初期に絶滅したと考えられていた三河島菜ですが、仙台伝統野菜のひとつ「仙台芭蕉菜」がこれにあたる事が近年判明しました。江戸時代に仙台藩の足軽が参勤交代の際に江戸から地元に持ち帰り、現在でも宮城県内で栽培されています。



三河島菜の特徴
北豊島郡誌によると
「葉の形状闊大にして、莖身細長なり其の色淡緑にして莖葉とも柔らかく」とあります。
東京都農業試験場に残されている細密画では白茎の三河島菜が描かれていますが、もとは青茎であり、白茎は明治以降に改良されたものであった事も分かりました。

※三河菜(JA東京中央会)

 



綱吉の脚気がきっかけ、練馬大根
「北豊島郡誌」によると五代将軍徳川綱吉がまだ館林の藩主として、松平右馬頭と名乗っていた頃(1677年延宝5年)、参勤交代で江戸住まいの時に脚気を患い苦しんだと聞きます。医者に診せても治らず、しかたなく占い師にみてもらうと、江戸城の北西「馬」の字のつく場所で養生すれば治ると出た。探してみると北西に下練馬とう村があったので、底に屋敷を建てて療養した。療養中暇をもてあましたので、尾張から大根の種を取り寄せ、地元農家につくらせたところ、立派な大根ができたという。ほどなく病は癒え帰城したが、大根は練馬旧家 大木金兵衛に引き続きつくらせ以来よくできたものを献上するように命じたという。その後も練馬大根は近隣へと広まっていき、江戸市中に大根の産地として知れ渡った。ビタミン不足から起こる脚気に大根のビタミンが病を癒やしたと言われています。(江戸東京野菜 物語編(大竹道茂著より)

 


練馬大根の特徴
白首大根系の品種。重さは通常で1~2kg前後、長さは70-100cmほど。
辛味が強い。沢庵漬けに適している。

※練馬大根(JA東京中央会)

 


倹約家吉宗 と江戸東京野菜(滝野川にんじん、小松菜)
飢饉の食料確保。
「享保の改革」で有名な徳川吉宗は米の増産や価格の安定など米を中心に据えた改革が多かったため、"米将軍"とも呼ばれるようになったといいます。また「享保の大飢饉」をきっかけに、江戸にサツマイモの種を中心に野菜の種を集めた中に、滝野川にんじんの種があったといいます。
※サツマイモの栄養価、栽培の容易さに目をつけ、飢饉対策の柱としたそうです。
また、鷹狩で訪れた香取神社(新小岩)で昼食をとろうとした際、神主の亀井和泉守永範は出せる料理がなかったため、餅のすまし汁に庭に生えていた青菜を彩りとして添えて出しました。すると吉宗はたいそう喜んで、青菜の名をたずねたところ、神主は「名もない青菜です」と答えました。すると「ここは小松川だから小松菜にするとよい」と命名したたといいます。(江戸東京野菜 物語編(大竹道茂著より)

 


滝野川にんじんの特徴
現在の北区滝野川)付近で栽培されたため、「滝野川にんじん」と呼ばれるようになりました。
根が長い品種で、長さは1メートルにも及びました。耕土の深い滝野川は、根の長い品種の栽培に適していました。また、冬場の貯蔵用として根の長いものが好まれました。そのため、滝野川地区では「滝野川ニンジン」が盛んに栽培されました。「滝野川にんじん」は、淡紅色で香りが強く、肉質がしまっていました。

小松菜の特徴
小松菜発祥の地、江戸川区の後関種苗が、昭和25年より晩生小松菜の一系統から集団淘汰を続け固定。昭和38年に「後関晩生小松菜(ごせきばんせいこまつな)」と命名、市販しました。後関種苗は既に無く現在は、日本農林社が扱っています。
滝野川にんじん小松菜(JA東京中央会)