その5 【秋田県八郎潟】

小学生の頃の教科書に出てきた八郎潟干拓工事

大規模農地開発だ。

湖がなくなる?

小学生には想像が出来ない大規模工事だ。

男鹿半島寒風山より撮影

【20年におよぶ今世紀最大の事業「八郎潟干拓」】以下は《大潟村ホームページ》より

北緯40度、東経140度の交会点を中心にしたかつての八郎潟は、東西12km・南北27km・周囲82km・総面積2万2,024ha、琵琶湖につぐ日本第2の広さを誇る湖であり、約70種を超える魚介類の宝庫でした。1954年(昭和29)にオランダのヤンセン教授と フォルカー技師の来日を契機として同年の世界銀行および翌'55年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められました。

20年におよぶ歳月と総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、1977年(昭和52)3月に完了し、八郎潟の湖底は1万7,239haの新生の大地に生まれ変わりました。

八郎潟干拓により、湖底から生まれ変わった新生の大地に村がつくられることとなり、村名は全国から募集され、将来に大きな理想と躍進をこめて「大潟村」と命名されました。

こうして村は、1964年(昭和39)10月1日に秋田県で第69番目の自治体として名乗りをあげました。6世帯わずか14人の人口でのスタートでした。全国各地からの入植希望者のなかから選抜された入植者は、干拓の目的である「日本農業のモデルとなるような生産およぴ所得水準の高い農業経営を確立し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」ことを担ったパイオニアといえます。

【入植と営農】以下は《大潟村百科事典ホームページ》より

(1)入植者の募集

 入植とは、人が切り開いた土地に入り、生活を営むことをいいます。八郎潟中央干拓地への入植者の募集は、国により昭和41年から昭和49年までの間に5回行われました。

  八郎潟中央干拓地の建設の目的は「ほかの地域の模範になるような新農村を建設する」ことでした。将来の日本の農業のモデルとなるよう、農業生産性と所得水準が高い農業経営ができる人を選ぶ必要がありました。そこで国は、入植時の年齢が20歳以上40歳未満(特に体が丈夫で営農の経験がある人は45歳未満)を条件として全国から入植希望者を募集し、選抜試験を行いました。合格者に対しては営農等に必要な訓練を一定期間行ったうえで入植してもらうことにしました。このような形での、国の全国公募による入植事業は八郎潟中央干拓地が初めてでした。

2) 入植者の選定

 入植希望者からの応募書類が届けられた各地方農政局は、以下に定める選定基準に基づき書類審査・筆記試験・面接試験を行い、審査委員会を開いて入植者選定の審査を行いました。

1.八郎潟中央干拓地に新しい農村を建設する意義を十分に理解している人。

2.八郎潟新農村建設事業団の計画に沿って、自立経営および生産性と所得水準の高い協業経営を行う意欲がある人。

3.入植に先だって行われる1年間の訓練により、新しい農業経営に必要な知識と技術を身につけることができる人。

4.入植する時の年齢が20歳以上40歳未満であること。(ただし、体が丈夫で営農経験が十分にある人は45歳未満でもよい)

5.営農をする十分な体力があること。

6.入植するときに、営農する労働力として1.8人以上(※)を有していること。

7.入植後に営農を行うにあたり、水の利用や作付け協定、農業機械の共同使用などにおいて協調できること。

8.資金として、1年間の入植訓練期間の生活及び入植初年目の秋までの営農と生活に必要な分を用意できること。

 書類審査、筆記試験、面接試験の結果を総合判定し、地方農政局ごとに候補者が選定されました。そして農林省農地局長と協議が行われ、秋田県知事の意見を聴いたあとに合格者が選ばれたのでした。入植年次ごとの応募者数と合格者数は、下表のとおりです。

※夫婦で営農することを想定していますが、当時女性は0.8人分の労働力としてみなされていました。

  多くの人たちに応募してもらうため、農林省は「八郎潟中央干拓地入植のしおり」をつくり、全ての市町村に配ったほか、入植事業の説明会を実施しました。また、地域によっては新聞や雑誌などに入植事業の広告が出されました。

八郎潟の開拓史に興味があれば、是非以下のサイトを見てほしい。

https://www.ogata.or.jp/encyclopedia/history/index.html

 

今回の一押しは

雪の茅舎

そして、岩牡蠣

ついでに天然鯛の石焼

男鹿半島かなり行けてるぞ!!

(2016年9月20日更新)